「影」のはなし

2016.06.30

こんにちは、カウンセラーの田中です。
最近はすっかり日が長くなり、夏目前ですね!暑い日には日陰を求めてさまよってしまいます。が、今回はちょっと違う「影」の話をしようと思います。

影について考えたことありますか?小さいころは影踏み鬼をして遊んだり、影絵を作ってみたり、そういう体験はある人がいるかもしれないですが、影なんてなくてもそんなに困らないし、自分にとって重要なものでもないと考えるのが普通かもしれません。
でも影って大事なものでもあるのです。いくつか例を挙げてみましょう。

詩人シャミッソーの『影をなくした男の話』。
ある男がいくらでも金貨を取り出せる魔法の袋を手に入れる代わりに、悪魔に影を売り渡してしまいます。お金を手にして裕福な生活を送る一方、影がないことで周りの人から非難を浴び、自らも影がない悲しみを背負って嘆き、今まで手にした魔法の袋も裕福な生活もすべて放り出し放浪することになります。その後、この男はすべてを失ったのちに植物学者として幸せに生きていくというお話です(中略が多すぎてわかりにくくてすみません。気になる方は是非読んでみてください)。お話の中では影が何かははっきり描かれませんが、おそらく「本当の自分の姿」「自身の存在を支えるもの」として読み解くことができます。

あるいは、人類学者のフレイザーは『金枝篇』において、ある原住民は影を槍で刺すことで当人を病気にすることができると考えていたり、影が分離してしまうと命が失われてしまうということを語ったりしていることを記しています。その原住民たちにとって、影は生命的な部分やたましいそのものとしてとらえられるものでもあるようです。

また、ディズニーの映画に『ピーターパン』がありますよね。その一場面でも影がいたずらをして好きなように動き回るのを、ピーターパンが困って一生懸命捕まえようとしていますが、そこには生き生きとしたもう1つのピーター自身の姿を見ることができるかもしれません。

このように影はなんだか大事なものとして描かれたり、自らの存在や命を支えるものとして考えられたりしているようです。
それをもう少し、自分の生活に生かす視点もご紹介しましょう。

ユング心理学の概念の1つに「影(シャドウ)」というものがあります。
簡単に言うと、自分自身について認めがたい部分、その人の人生において生きてこられなかった側面を表すものとされます。それは現実にいる他者(同性)に投影されて、自分の目の前に立ち現れるときに特にはっきりとします。
たとえば、Aさんが「Bさんって人に頼ってばっかりでずるい。甘えすぎて自分でなにもしてないところが嫌いだわ!」と思う場合があるとします。それは、そう感じるAさんが普段人に甘えたい・依存したいという気持ちを抑え込んで生きているのに、現実にBさんがそのようにふるまって生きているので、自分の抑え込んでいる部分がチクチクと刺激されてどうにも気になってしまうのだというように考えるのです。
ここではBさんがAさんにとっての「影(シャドウ)」ということになります。ユング心理学では、このような自分の影とつながりを持ち、こころの全体性を回復していくことに重きを置いています。

人を嫌ってはいけないとか、人を悪く思うのは悪いことだと強く思っている方にもたまに会いますが、ユングの影の考え方からすれば、そういう気持ちが生じるのも当然のような気がします。
影を嫌うだけで終わるのでなく、自分の中の苦しい部分、本当は生かしたい部分を教えてくれる大切な存在であると考えてみるのはいかがでしょう。影を理解し、つながっていこうとすることで、本当に生き生きとしていくことができるのかもしれません。

(※興味のある方は、河合隼雄『影の現象学』に詳しくありますので、ぜひお手に取ってみてください。)